「沼一中一回生回想」
おばあちゃんは大先輩 上 花村邦子
孫が沼一中に入学する。子どもの成長は早いもので、追いかけるように私も、もうすぐ七十八歳。
ゲームに熱中している時の孫の指さばきの見事なこと。時折、「ウー」とか「ゲー」などと、おかしな声を出す。「この子、大丈夫かな」と、しばらく顔を見つめる。少年ぽい、その横顔がチラッと私を見る。
「そんなにゲームに夢中で、本当に中学生になれるの」彼の返事。「今年の子はさ、皆幼いんだってサ」
沼一中一回卒の私としては、この際、話しておきたいことが山ほどある。
「おばあちゃんは、お前の大先輩なんだョ」と話し出すと逃げ腰の彼。「きょうはトランプではなく私の話に付き合って」と、きっぱり言った。
「日本が戦争に負けてアメリカの言うことを聞かなければならなくなったのは知っている?」「うん」
「小学校の教育も軍国主義から、自由と権利を大切にする民主主義に変わったの。それまでの『お国のために生きなさい』という教育から人間の権利を大切にする教育方針にガラッと変わったの。義務教育が六・三制になり、小学校の六年間と中学校の三年間。その後は高校が三年間、そして大学というようになったの。その時の新制中学第一回卒業生は、今のお前と同い年。お前達は、小学校を卒業した後、当たり前のように一中に入学。『一年生、おめでとう』でしょう」「当然!」ときた。
「おばあちゃん達は一中生になっても校舎がなかった」「なぜ」
「戦争の時、空襲で沼津のまちは丸焼けになり、家も学校も焼けて、なんにもなくなったんだよ」「知っている」と孫。
「小学校六年の時、学校はこれからどうなるのか不安だった。教育制度が変わり、試験を受けなくても義務教育として中学生になることができるようになった。焼けずに校舎が残っていた私立の学校を受験して進学した子もいたけれど、ほとんどの子が一中生になった。制度は決まっても校舎がないの。そこで、残った公社、海軍工廠、軍需工場の宿舎などを校舎として使うことになった」
「それでも足りなくて、一中は金岡中と一緒に勉強することになった。一年生の足で家から金中までは遠かった。毎日が遠足のようだった。雨もよく降り、大雨になると一つ目ガード(今の中央ガード)は汚水混じりのプールになった。浅くて歩ける時はジャブジャブ歩き、通れなければ、ガードの上に止まっている貨車の下を潜って登校した。それでも学校に行くのがイヤなんて、一度も思わなかったョ。戦争に負けた国だから何もなくても仕方ないと思っていたし、恐ろしい空襲はないし、何か前より楽だったからー」
「でも、辛かったのは、お弁当の時間。金中生は、ほとんどが家は焼けないし、農家だったから、白いご飯のお弁当だった。私達一中生は、商家が多いし、家も焼け、何もなかったから皆、貧しかった。お弁当だって代用食のおイモなどで、まともな食事は誰もできなかった。今、考えると、なんて冷酷な組み合わせだったのかと思うよ。一中生は皆、栄養失調。だから金岡の子の体力には負けるけど、"勉強で勝つ"と心に決めていた。やっぱり子どもだもの。変な意地も張ったりしながら、その頃が一番辛かった」
孫の手が何回か目元にいく。黙って私を見詰めている。
そんな孫の様子を見ながら私は話を続けた。(つづく)(市揚町)
(沼朝平成24年3月31日号)
おばあちゃんは大先輩 下 花村邦子
「二年生になる時、一中生は、今市立高のある場所に大きな公社があって、そこに引っ越すことになったの。本光寺さんとかPTAの役員さん達の世話で金岡中と一中は教材を分け合って、それを二`くらいの道のりを皆で運んだ。栄養失調の十三歳の子達が、机、椅子、黒板、理科の実験の教材などを胸に抱えて運んだの。大変だったけど、うれしかった。本当にうれしかった。
まだ三月で肌寒く、その上、まともな靴もなく、足はグショグショで冷たい。皆、笑顔なのに泣いていて、顔も足もグチャグチャになりながら歩いた。疲れては休み休みして、目的地に向かう途中の野原には、クローバーの白い花やピンクの小さな姫あやめが咲いていた」
話しながら私は、その風景に再会していた。ポロポロと落ちる涙を孫に重ねていた。孫の目も濡れていた。
「二年生になり、一中生だけの仲間、幸せだった。校舎の東側半分には市立高のお兄さん連がいた。西半分が一中。お弁当の時間も楽しいものになり、少しずつ物が出回り始めて分け合えば足りるようになった。男子は野球、マラソン。女子は歌や、分かりもしない恋愛論など何もない分、希望がいっぱいだった。二期生も入って来て、少しずつ学校らしくなってきた。
そんな頃、一中の校舎が丸子町に決まった。私連一期生は、新校舎に入れないことは分かっていても、これからできる一中の校舎に夢をふくらませて、何度も運動場の整地に行った。小石を拾い、手に豆を作りながらコンクリートで出来た大きなローラーを引き、文句たれたれ、よく働いたよ。"後輩に幸あれ"と願って私達一期生は、辛い思いをいっぱいしたから、その分、頑張れたんだよ」
ここまで話し、「これが沼一中の始まりだよ。何か感想は?」と水を向けると、「さほど感動的とはー」と孫は口を濁したが、その目は確かに濡れている。
この話も戦災による犠牲の実態であるが、それでも夢も希望も持てた。食べるもの全てがおいしかった時代ー。
沼一中一期生から数えて今年は六十五期生となる。この歳月の流れを「時代」だと一口でくくりたくない。教育の力は、かくも恐ろしいものかと今さらのように思う。その上、現在にあっては、天災、人災、原発、世界的経済不況と、どこまで犠牲を強いられるのか。
東日本大震災から一年を過ぎた。家があっても帰ることができない人達。一方で、除染をしても放射能への不安が消えないままの帰郷。「がれき」の文字が私の心に突き刺さる。
原子爆弾を落とされ、その怖さ、悲惨さを肌で感じて」「ノーモア、ヒロシマ」「ノーモア、ナガサキ」のはずの私達が無関心で過ごしてきた一時代。それが今度は「フクシマ」を生み出してしまった。孫達の未来.のため、限られた"いのち"の中で、今こそ脱原発を発信するしかないと思う。
孫達の未来に花は咲くのだろうか。
ーあの救世主の花は本当に咲くのだろうかー。(おわり)(市場町)
(沼朝平成24年4月1日号)
|